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時間の響き
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作詞 野馬知明 |
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時間の響き、カチカチ、カチカチ、知らぬ間に心の間隙に潜みて、
チクタク、チクタク、知らず知らずの内にその亀裂に溺れ、
それは楼閣の砂のような流れだろうか、
カチカチ、カチカチ、あるときはブラックホールの異常な濃密さで、
チクタク、チクタク、あるときは重力の柵から極度な散漫さで、
チッチッ、チッチッ、エントロピー増大の果てに、それに一定の濃度があるのだろうか。濃度が限りなく希薄であるとすれば、
ルートヴィッヒ・エードゥアルト・ボルツマンのように、自死するしかいない。
リチャード・マティスン、『人生モンタージュ』とは至言。
ある日、ある時、ある処で、不意に意識を喪失する。
ふと気がつくと、全てが停止している。人も車も時計も・・・。
日?い真昼間、足元を見ると影がない。
そのとき、その谷間から自分の内臓を垣間見たような、
鉛の氷柱で脳天を砕かれたような、決定的な不条理にゾッとする。
人はマネキンのようにじっとして、マリー・タッソーの蝋人形のように呆然としている。陽光は瞬き一つなく、碧空に節穴の様にへばりついている。
そう丁度、氷輪のように、恒星太陽は凍り付いている。
すべてが時間の逆断層、これがその一コマ。
長い時間の沈黙、陽光の凝固、
継続されるべきゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツの運動の微分、
物体と物体の犇めき合いの刹那、
谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』のありとあらゆる陰翳の澱みの氷結、
それらがみな漆のように膠着して、時間の深い谷間に漂うともなく、浮上するでもなく、非常に大きな精緻な空間の次元のブラック・マターの圧力によって逼塞している。
カチカチ、カチカチ、ビッグバン以来、それでもなお時間は過ぎ去るのか、
チクタク、チクタク、人々は皆、自分も他人と一緒だという安心感から
抵抗一つなく、押し流されてゆく。
チッチッ、チッチッ、それはもはや、流れではない。
カチカチ、カチカチ、時間には過去も未来もない。
チクタク、チクタク、現在は現在という過去であり現在という過去の未来は現在である。現在は断片であり、瞬間であり、全て偶然にすぎない。
私は、ピエール・シモン・ラプラスの『確率の解析的理論』の悪魔を信じない。
チッチッ、チッチッ、それは絶対に現在ではない。
リチャード・マティスン、『人生モンタージュ』とは箴言、
偶然で無い断片がAの画面になり、瞬間に生まれた悠久がBの画像になる。
賢明な人はシルク・スクリーンの前には立たず、
たとえ、スプリングがいかれていても客席に座り、自分の人生モンタージュを観る。
それはちょうど、ジュゼッペ・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』を見るのと同じように印象の連続で終わる。
終わってしまえば早いもの、
親切にも興行主の「時間」は、終了すると速やかに緞帳を下してくれる。
ありがたいことに・・・。
客席の賢明な人々は何の疲労も知らずに、時間の流れの傍らに聳える山巓におかれる。
山頂と流れの間には分厚い積乱雲が垂れ込めてトルネードの坩堝で流れは全く見えない。賢明な人は時間の流れの騒がしさも知らず、
とてつもなく巨大に膨張した希薄な無限大の時間の中に佇む。
そうやって、初めて自分で切断した首を、
マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエールの断頭台の斧で滅茶苦茶に叩き裂くような恐怖を覚える。
愚鈍な人は愚鈍なりに、スクリーンの中で自があたかも主人であるかのように活動し、
客席の賢明な人に激しい羨望を抱きつつも表面では優越者ぶって冷笑し、
人生モンタージュの最後の画面まで、息絶え絶えに走り続ける。
その時はもう疲労困憊し、賢明な人のように笑うことすらできない。
しかし、愚鈍な人は時間の流れのすぐ近くの小高い丘に住むことができ、
喉が渇けば流れを飲むこともでき、たっぷりとした濃密な時間の中に佇み、
折々、流れの音に福耳を傾けることができる。
愚鈍な人は画面を走り続けながら、こうなることを予知していないが、
矢張り客席に座りたい欲望を抑えて、ご苦労様に全身汗だくになって、
人生モンタージュの画面を、画像となって動き続ける。
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