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「恋愛狂想曲」第四楽章・第三小節
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作詞 野馬知明 |
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「恋愛狂想曲」第四楽章・第三小節
女は夫と別れ、男を追う冬の寒空の下
男のためなら伯爵夫人の名も捨てる覚悟
今度こそすべてのものを失う決心で男の傍ら
そう、ため息も涙珠も情愛も憤怒も
使い果たした人生の澱んだたまり場で
明日のない夜更けに借金と負債に負われ
寸時の無償の宿を求める男の横顔に
類としての男ではない男を
時空を超えて物そのものとしての男を
女は寸毫も動かない明晰な瞳の中に感じた
何もかも投げ出して女がどうあがこうとも、
最早男の心の中に棲むことはできない
世間の成り行きに従って女が男に身を捧げ
男が自分自身に対立することをやめ
賞賛の花束で埋もれた寝台の上で、
欲情の趣くままに女を汚したあの宵から
女が描いていた男の偶像は静かに地に堕ちた
男があえて女を穢せないと言ったのは
自己の心の中に華麗に描いていた
この世にあらざる女の偶像を崩壊させたくなかったがため、
保ち守りたかったがため
そのことを知った女にとって男は今はもう
粉々に砕けた落ちた偶像に過ぎない
そして、男にとっても女は
ひび割れた復元することのない偶像でしかない
その偶像はかつての男の芸術的発想の源泉
滾々と湧出する尽きざるイメージの宝庫
永遠の採掘に耐えうる無尽蔵のモティーフの鉱脈
くめど尽きせぬ黄金をたたえる巨大な泉
恋愛の舞台から飛び降りた女にとって
眼前でワイングラスを傾ける男は、
最早、種としての男の名に値しない
味もそっけもない一個の人間、一個の生物
今はもう女の入り込む余地は失せた
女はすべてを了解し、今は唯
帰宅を哀願する夫のもとへ再び帰る渡り鳥
酒場の軒下に止めた辻馬車に乗り込むと、
今でも男のやりきれない退廃の歌が耳に響く
・・・ああ、人生の岐路
右へ進むも左へ曲がるも
賽の眼次第、酒次第、
どちらに折れるも同じこと、
どうせ人生は一度きり
泣いて笑って飲めや歌えや夜の続く限り
どうなるか、誰が知るものか、夢のその先
ケチったらしく、ちびちび暮らすより、
みんな呑んでしまった方がまだまし
何年生きるも天の運
どうなるかも天の運
生まれて死んで、どうやっても、ただそれだけ
それがどうしてそんなに難しい
何でそんなに苦しむことがある
至って易しいことだろうに
耆老となって往生する運命
彗星のごとく夭折する運命
どちらも同じ五十歩百歩
大して変わりはしないではないか
それがどうしたといいたいのか
娘さん、酒をください
水割りはダメ
やけに水っぽくて、湿っぽくていけない
ウオッカやテキーラのように熱いやつがいい
アブサンのように情のこってりとこもった
思わず知らずほろりと来る熱さ
貴方にもわかるだろう
文明に毒された哀れなこの俺の
切なくやるせないどうにもならない
どこにも置き場のないやりどころのない
永久に絶対を求めてやまないこの心を
冷えびえとした酒場の夜の終わり
それは軽い財布の底の尽きるころ
もう一銭もない、帰り道は星の下
月のある夜は風がある
遠くに聞こえる犬の遠吠え
何物でも代替しがたいこの世のわびしさ
それはしみじみと身に染み入る
辻々を縫って走る風の夜に泣く声
男は涙ながらに夜空を仰ぎ見つつ呟く
・・・嗚呼、この手に力があったら、この身に、
この腕に有り余る情熱があったら、
偶像の滅失に何ゆえに死を憧憬としようか
辻馬車の窓越しに見える寒空
師走の強風は身を締め付ける
景気のいいのはすでに閉めた店
安酒場はいつまでも
だらだらだらりと遅くまで
カネのない客、来もせぬ客に網を張る
男は思う
・・・そうそれも人生、絶対を見失った今、
人から何のかんのと文句を言われる筋合いはない、
全てが偶然、全てが混沌、全てが相対、全てが無秩序
煌々とあたりに灯りを投げかける
街角に佇立する孤独なガス灯
男もボンヤリ夜明けのガス灯
客のない辻馬車の御者に男はぼやく
・・・あんたらも大変だ。
何の因果か、ここにこうして目に見えない巨大な歯車とともに、
唇歯輔車、命尽きるまで、ぐるぐるぐるりと回っている。
嗚呼、今宵もまた更けてゆく、凝った星夜の空の下、
俺の心を師走の風が悲しい音を立ててふく抜ける
女は揺られて馬車の中、
夫の屋敷から引き返し巷の辻々に男を求める
冷たさ心に沁みとおり、そっと外套の襟を立てる
それとちょうど同じころ、男は滄浪と千鳥足
薄汚れた外套の襟、春になればこれも質種
女の白い美しい襟足、脳裡に描きつつ
道行く辻馬車のその中に、もしや女が乗ってはいまいかと、
虚しい思いを繰り返す
その思いの切なさに、ゾッと寒さに襲われて
襟を立てて足早に、あてのない宿を求めて、
街角から街角へと歩き去る。
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