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存在意義
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作詞 Y.K |
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自身の存在意義とは?
時に人はその事について深く考えすぎてしまう。
自分が生きている事で、この世の中にどんな影響を与え、それによって自分に何が返ってくるのか、周囲がどう動いているのかが気になり、それを知ろうとする。
しかし、そんな事を考えるのはあまり利口なことではない。
存在意義を探すのも悪くはなかろう。
しかしそれが見つかろうが否か、そのどちらであってもその人はその人に変わりない。
自分にとっての“それ”を知るものと知らぬものの間に、一体いかほどの違いがあろう?
“それ”が見つからぬものの中には、まるで、自分が駄目な人間なのだと勘違いをし、迷い、悩み苦しみ、酷いときには自らを死へ導く愚者もいる。
本当にどうかしている。
思うに、存在意義なんてものは、自分で見つけたり、作り上げたりするものなどではないのだ。
“それ”はきっと、すでに本人には感知出来ないほどの深さで、周りにいる者によって作られ、絶え間なく当人に注がれているものなのだ。
私は思う。
いま私の傍にいて、何の遠慮もなく私の“恥ずかしくて思い出したくない過去”について、屈託のない笑みを見せながら話す友が、ふといなくなったとしたら―
口ではあれこれ言うものの、最後は“自分を信じてやってみなさい”と背中を押してくれ、毎朝毎晩影で支えてくれている家族が、ふといなくなったとしたら―
シアワセもドンゾコも経験して、結局は結ばれなかったけれども、何故か今では笑い合え、触れ合い、連絡を取り合う昔の恋人が、ふといなくなったとしたら―
私は思う、悲しい。
私は感じる、辛い。
そして私は理解する。
この時生まれた感情たちは、相手にとっての“存在意義”以外の何者でもないと。
人は、自分の存在意義を考える前に、もっと大切なものに気付くべきと。
私は、相手がいてこその私で、それだけで生きているカチがあると。
彼らは別段、特別な理由などなくとも、私の為に存在していないと駄目な人なのだ。
訳もなく勝手に消えてもらったら私が困る人なのだ。
そして、それは皆それぞれ同じように当てはまるものなのだ。
生きる目的や意味が見つからなくて、うつむいている人に―
大丈夫。それらの鼓動を実感出来なくとも、きっと僕ら生きていける。
何も不安がることもないし、自身を蔑んで見ることもない。
自分の“それ”はちゃんと、今あなたの隣にいる人が持ってくれているから。
そしてあなたは、隣人の“それ”をしっかと握りしめてあげて。
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